+ 略歴【~学生時代】
住友玲子(すみとも りょうこ)、という名前ですが、個人名で「住友」というのは、まだまだなかなか珍しく思われることが多いですね。
名前も、今までの人生の中で、この漢字を見ただけで正しく「リョウコ」と読んでくれた方は両親、親戚以外に誰一人としていません(^^ゞ。ほとんどアテ読みなんでしょうか。
父親が「りょうこ」という呼び名が気に入っていて、だけど、「玲子」という漢字も気に入っていて、くっつけた、、とか?むか~しの辞書とか東洋漢字辞典?などには一応、「玲」=「りょう」での読みと意味も掲載されているとか、、、。
苗字を見ただけでよく、住友一族のご令嬢ですか、とよく聞かれますので、「はい、そうです。」と無条件にお返事をしています^_^;。。(本当の住友一族の方々、ごめんなさい!)。
父親は北海道出身、母親は九州種子島出身と南北両端出身の2人が大阪で出会い、結婚後、東京に引っ越してきて私が生まれました。
A型ですが、几帳面でもなく、割とおおざっぱで、細かいことは気にしませんし、イヤなことはすぐに忘れるタイプです。
目白学園女子高等学校在学中、夏休みを利用して初めてアメリカ、ロスアンジェルス(当時、2歳年上の兄が住んでいた場所)郊外のサンフェスナンドバレーへホームステイ経験。
アメリカの自由奔放、大胆な発想、生活スタイルが気に入り、その後、高校3年間の夏休み、冬休みはLAの兄の家に押しかけ滞在でアメリカナイズされてゆく。。
上智大学比較文学部を3回受験するが3回共不合格。(同じ時期にアメリカンスクールで受験していた早見優ちゃんはその年見事に合格していました~)。最終的に、推薦入学で桜美林大学文学部英語英米文学科へ進学。
大学在学中、仲の良い友人たちは3年のときに次々と交換留学生として海外の大学へ留学していったが、私は、と言えば、遅刻常習犯だったため、優秀な成績を収めることができず、留学候補の可能性はほぼゼロ。
結局、のらりくらりと、東京六本木辺りの踊場(当時はディスコと呼ばれておりました)、に通いつめ遊んで暮らした4年間でした。
留 学はできなかったものの、大学の長期春休み、夏休み、冬休みを利用し、バイトで貯めたお金でまたまたLA在住中の兄の家に押しかけ、サンタモニカカレッジ などで夏休みのサマーセッション講座などを受講しながら、アメリカナイズされてゆく。 その頃のいわゆる「行ったり来たり」で、現在の英語力の基盤が作られた、と、思われます。
平行して大学在学中、ふとしたきっかけで東京アナウンスアカデミーに入学。密かにアナウンサーへの道を希望していたのかな?基礎科、研究科、ナレーション科を修了。
就職の時期には、東京民放局4,6,8,10,12チャンネルをはじめ、北は北海道、福島、南は鹿児島テレビに至る地方局もアナウンサー志望として受験するが、(当たり前のように)ことごとく全敗。
+ 略歴【~社会人初期】
大学卒業後、すぐには就職をせず、プロダクションに所属してナレーターとしての第1歩を踏み出す。
し かし、来る仕事といったら、展示会、イベントの司会ばかり。それも、過酷な原稿の暗記(一番多かったときでA4サイズ30枚)、プロダクションのマネー ジャーの横柄な態度(私たちナレーターをあくまでも商品として扱う粗雑さ)に辟易し、私が目指していた話し手とはこんなモノなのか!と現実と創造していた 世界とのギャップに悩む日々。
結局、マネージャーと相性が合わず、当時所属していたプロダクションを脱退。生計を営んでゆくために、とりあえず派遣社員として建築企画事務所で企画を担当しながら、ナレーターとして、話し手としての自分の可能性を模索することに。
2年間、建築企画事務所で働いた後、過酷過ぎる労働とバブル崩壊による減給、ボーナスの現物支給などの会社からの対応により退社を決意。その頃、東京アナウンスアカデミー時代にお世話になっていた講師が「コミュニケーションクラス」を開催していることを知り、見学に。
そ こで、自分が目指してきた話し手という職業に対する不安、その当時の自分が本当は何をしてゆきたいのか、という疑問をスパッ!と目からうろこが落ちるよう に ひも解いてくれたコミュニケーションクラスがすっかり気に入り、自己改革のためにその後しばらく、講師との再会を喜び、受講をする。
再 びもう一度、ボイスレッスンから魅力のある話し手としての訓練を受け、ナレーター時代に身についてしまった「ヘンな、いかにも、ナレータです!」喋りを改 善してもらい、その成果あって、結果ボイストレーナーとして、また、最終的にはコミュニケーションインストラクターとして、恩師のサブアシスタントになる までに。
魅力的な自分になることが魅力的な話し手の第一歩であることに気づいたあたりから、当時所属していたプロダクションや人づてで仕事が入ってくるようになる。大学卒業後に感じたギャップはもうそのときは感じることもなく、改めて、「話し手」として再出発をする。
そ の傍ら、兄と共同でアメリカアイダホ州のツアー企画を運営したり、国内イベント企画運営スタッフとしてキャンプイベントなどの開催を手伝ったり、話し手と はまったく無縁の世界にも首を突っ込み、 この頃は、フリーのナレーター、というよりは、自称、自由業、、という肩書きが似合っていた感じ。
だけれども、この頃に体験した様々な世界の様々な事柄全てが今の私を作り上げ、感性を豊かにし、人間として大きく成長していった時期でもありました。
+ 略歴【~現在まで】
自由業を営んでいた結果、ひょんな出会いで、あるイベント企画会社を紹介され、そこが企画するハワイでの大きなイベントにバイリンガルMCを依頼される。これが、今日の住友玲子をバイリンガル・マルチコミュニケーターとして築き上げた大きなきっかけとなる。
その後数年間、そのイベント企画会社からの依頼で何度となくハワイに出向き、またオーストラリアなどでもバイリンガルMCとして活動し、その他からもバイリンガルMCとしての依頼が増えてくるようになる。
そこで、同じ話し手でも、日本語としてのアナウンス技術も身につけ、さらに英語でのナレーション、MC技術も身につけて2ヶ国語を同じ技術で司会者とし て、またあるときは通訳も兼務しながら進行できる「バイリンガル・マルチコミュニケーター」として、自分を位置づけてゆくことに。
それから今日に至るまでの間、バイリンガルな状況を必要とする場面でMCとして、通訳者として、ナレーターとして依頼を受けることがメインとなり現在に至る。
1999年、休暇で訪問したハワイ州モロカイ島で出会った青年との間に一児を設けるが、入籍などは一切せず、シングルペアレントとして息子としばらく拠点を日本に置き、生活を続けることを決心。
同年から2000年冬ごろまでは実質、出産~育児で仕事は休業。
出産後、しばらくの間はパソコンのインストラクターとしても活動。企業や個人向けにホームページを作成したり、パソコン(Windows)を教えていた。
出産前後、ハワイ州マウイ島に何度となく飛び、マウイ島、モロカイ島の自然、人々に心惹かれ、1999年冬から細々と立ち上げていたウェブサイトを正式にリニューアルして、2001年、Love MAUIオンラインショップサイトとして起動。関連してLove MOLOKA'I観光案内サイトも立ち上げる。2004年、Love MAUI 実店舗(現Aloha Crafts)を吉祥寺にオープン。
2009年、より自分の使命をきちんと世の中に還元してゆくために、ショップを一旦クローズ。
スローペースだったバイリンガルMCとしての仕事を増やしさらなる現場経験を積む。
2010年秋、代々木上原でショップを営む友人とショップをシェアして使用することに。ショップの一角で、バイリンガルMC集中講座やプライベートレッスンなどを行いながら、ハワイの情報提供なども行う拠点となる。
現在は、モロカイ島情報提供、ハワイの本翻訳、バイリンガルマルチコミュニケーターと、どれも自分としては「本業」として位置づけ、活動しています。
いずれもサービス業であり、人々を幸せな気持ちにさせることに変わりはなく、コミュニケーション能力が大いに問われる職種であり、全く異なる業種といえども、共通点は数多くあります。
また、全ての活動は、実は一見すると何のつながりもないように見えますが、実は、すべて同じ、つながっている、ということも実感しているが故、
どちらかの職種に専念するのではなく、2つの異なる業種、どちらもメインの柱として活動してゆくことが、現在の私にとってはほどよい刺激、そしてバランスであると考え、今後もこのスタイルを維持して活動してゆく予定です。
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